西尾祇園祭とは
起源は疫病除けの祭り
西尾祇園祭の起こりは、疫病除けの神様のスサノオノミコトを祀る伊文神社の祭礼神事です。古くは女装し牛にまたがった神職が、御幣を立てた神馬を先導し、その後ろを囃し立てる行列とともに町中を巡り、疫病や災厄を追いはらったといわれています。
歴代藩主の粋な計らい
歴代の藩主たちはそれぞれ、お祭りの費用を援助したり、剣旗、鉾を出したり、さらに諸武具を持たせて神輿を警固し、町人が行う年に一度の祭りを盛り上げ奨励してきたと伝わっています。
伊文神社から御劔八幡宮へ
「神輿渡御」
年に一度、西尾城下の北東の端で鬼門を護る伊文神社を出御し、南西の端で裏鬼門を護る御劔八幡宮まで渡御した後に御旅所で一泊して還御する神輿渡御。御劔八幡宮は城内の本丸のすぐ傍に鎮座していましたが、藩主の両社への崇敬と祭りへの配慮から通行が許可されていました。
町人のためのお祭り
神輿の渡御に随行し、行列を華やかにする「練り物」。かつて六ヶ町と呼ばれた商家が立ち並ぶ6つの町が、大名行列や神楽獅子、屋形、囃子(手踊り)など、財や粋を競い合って趣向を凝らしてきました。この祭りは町人のための祭りとされ、武士らは家の内から行列を眺めることになっていました。
神楽殿の紹介
文政二年(1819)に作られた神楽殿が伊文神社にある義倉蔵の中から見つかりました。御剱八幡宮への神輿渡御の際、神楽を舞って奉納する建物で、御神輿が一晩鎮座する事から御旅所でもありました。
188年も前のモノですのでアチラコチラにガタは出ていますが、基本的には釘は使わずに組み立てられる構造になっています。張りの部分や飾りには立派な彫刻がされ、歴史を感じる事ができます
幅はおよそ二 間半(約4.5m)奥行きは4間(約7.2m)高さはおよそ5mの大きさで、江戸時代のものでこのサイズの組み立て式の神楽殿は珍しいモノです。
古来の祭礼の様子
小京都西尾の祇園祭
西尾城下の祭は、西尾の祇園祭と呼ばれ、疫病や災厄除けを祈念する伊文神社の祭礼として長い歴史を持っています。
祭礼は2日間に渡り行われ、神輿が町中をねり歩き、御剱八幡宮へ渡御する事を中心に、獅子舞・大名行列・屋形が続き祭を盛り上げていました。江戸時代中期の寛延年間(1748〜)の祭礼記録には、神輿渡御の行列は神輿を中心として、ねり物が随行する行列であったと記されています。
その行列の順序は、傘鉾ー鉄砲ー玉箱ー弓ー長柄槍ー剣旗ー鉾ー榊太鼓ー禰宜ー神輿ー神主ー長柄傘ー天王町獅子ー肴町大名行列ー須田町囃子ー本町囃子(手踊り)ー中町囃子(手踊り)ー横町囃子(手踊り)。
神輿が造営される前は、太鼓を打ち、笛を吹き、神楽歌を歌い、白粉を塗り髪を垂らして女装した神官が牛に乗って、背に御幣を立てた神馬を導き、後続に子供達が短冊を付けた笹を手に持ち「サンヤレ サンヤレ」と囃し、町中を廻っていました。
天正19(1591)年、田中吉政の代に初めて白木の神輿が造られ、大手前へ御旅所が設けられました。
その後、ご神体を神輿に乗せて伊文神社から氏子の町々をめぐり、西尾城本丸の御剱八幡宮へ渡御するものとなりました。
寛永3(1626)年、城内に設けられた御旅所で一夜を過ごすようになってからは、祭礼は2日間行われるようになりました。
現在の神輿は明和4(1764)年に京都で造られたものです。
江戸時代には、祭礼に対して西尾城主より金銭・米などが奉納され、警固と称し、鉄砲十挺・弓十張・玉箱・矢箱・長柄の槍が行列を組み神輿は重さ百貫(約375kg)ほど、担ぎ手として多くの若者が集められました。
市街地の所々で急速を取り、近所の人々の御参りを受けて進み、参拝した後に神輿の下をくぐると夏病みしないといわれています。
祭礼は旧暦6月15日、16日に行われていましたが、明治41年からは7月15日、16日に変わり、現在は神輿奉仕者や余興の参加者などの事情から7月15日に伊文神社で祭礼が行われ、7月15日に近い土曜日・日曜日に神輿の渡御が行われています。